十九と九十


 ある時、こんなクイズを出した。
「今から僕が六つの言葉を言います。いいですか、よぉーく聞いておいて下さーい。いきますよ−。『十九』、『救急』『九十』、『チュ−チュー』、『ジュ−ジュ−』、『中級』。さて、僕が三番目に言った言葉は何だったでしょう?」

 答えはもちろん『九十』である。しかし、この問題に答えられた人は誰もいなかった。今だっておそらく誰も答えられないだろう。こうして文字に書けば一目瞭然なのだが、僕がしゃべると、みんな同じに聞こえてしまうのだ。言っている本人でさえ時々分からなくなるのだから、他人に分からなくても当たり前なのかもしれない。

 もともとこの問題を作るきっかけになったのは、ある女の子に数学を教えていたときの彼女のちょっとした間違いからであった。
「そこは十九χだろ!」
「えっ!九十χてか−」
「九十と違う、十九」
「もう一回言うてみ、おんなじように聞こえるぞ−!」
「ほなけんな、十九っ」
「九十」
「お前わざとに言よんな!」
「ちがうもん、少のうても二回に一回は、ほう聞こえるもん、ハハハハ………」

 それからというもの、勉強なんかそっちのけで『十九』と『九十』をきちんと発音する特訓が始まった。真夜中の特訓が何日も続いたわけだが、効果はいっこうに上がらず、ただ夜勤の職員にいっときの笑いを与えたのみであった。

 けれど、考えてみれば僕はこの言語障害のためにかなりの被害をこうむっている。言語障害さえなければ、あるいは僕はもっとおしゃべりであったかもしれない。

 こんなエピソ−ドもある。まだ小学生の頃のバレンタインの日、めずらしく女の子が寄ってきてチョコレ−トをあげると言う。僕はそれまでチョコレ−トなんかもらったことがなかったし、その子もなかなか可愛い子だったので照れもあって「くれるんだったら……」などと、ガラにものなく格好を付けて言った。すると「てっちゃんてチョコレ−ト食べれんのんえ−、ほりゃまぁ残念」と、あっさり向こうへ行ってしまった。後で訊いて分かったことだが、彼女には「くれるんだったら」が「食えるんだったら」に聞こえたらしい。その時以来、くれるというものにはあまり余計なことを言わず、素直に「ありがとう」だけを言うことにしている。

 また、ジョ−クを言って通じなかったときも困ってしまう。ジョ−クなどというものは、その場の雰囲気とタイミングがあってはじめて面白いものだ。なのに「何?」なんて訊き返えされると、まずこちらがしらけてしまう。でもそこで「もうええわ」なんて言うと「一回言いかけたことは最後まで言え!」と怒られてしまうので、ゆっくり言ってみたり、違う言い回しを駆使してみたりする。まあそのかいあってなんとか通じるが、もうその時はおかしくもなんともない。それどころか強烈なカウンタ−パンチをあびせられる。
「まじめな顔して何をたっすいこと言よん」と。

 他にも「うん」と返事したつもりが「お−」と聞こえて「なまいきに−…」と言われたり、初めてのところに電話をかけるといたずら電話に間違われたり、タクシ−の運ちゃんに行き先が通じなくて困ったり、まったくろくなことがない。

 それにもかかわらず、僕はある愚かな夢を持っていた。近所の子供たちを集めて塾の真似ごとのようなものが出来たら……、というものである。単に勉強を教えるだけではなしに、友達どうしの感覚で一緒に遊ぶことができたらなどと、大学出たての熱血教師のようなことを考えていたのであるが、これに立ちはざかったのはやはり言語障害であった。いくら『たんぽぽの家』で「言語障害なんてものは一つの個性なんだから気しすることはない。大丈夫、君の言ってること十分分かるよ。気にせずしゃべりなさい」と励まされても、「十九」と「九十」がきちんと言えない限りこの夢は実現しそうにない。

 もし神様がいて、一箇所だけ直してくれるとしたら、迷わず口を直してもらうのに、なんてあほなことを考えていたら、その横を二階の子供たちが虫取網を持って中庭に走っていった。
それを知ってか知らずか中庭の蝉はずっと鳴き続けている。


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